『アダムスキー全集より』
あなた方の家庭では、お互いに感じている愛をさかんに語り合いますが、あなた方がもっていると称するこの愛そのものが、それ自体他人を縛る所有欲として表れることがよくあります。これ以上、束縛のない状態にある愛に対立するものはありません。本当の愛とは、尊敬とお互いの信頼と理解とを含んでいるはずでしょう。他の星で知られて表現されている愛とは、決して、地球で曲解されているような間違った所有欲は含んでいません。私たちが理解している愛とは“神”(至上意識、創造主など呼び方はいろいろ)の心から放たれるものであって、それはあらゆる創造物、特に人間を通して、他の万物に向けられるものです。そこにまったく分け隔てがありません。実際、あるものに価値を認め、あるものには認めないというようなことはできなくなります。でも地球に存在している歪んだ愛を見てください。それはひとえに地球人が、自分についても“父なる神”についても、何もわかってないからです。この無知のお陰で“戦争”なるものに突進し、他国民や有色人種、それに他の宗教を信じている人たちなどを虐殺したりするのです。しかも自分のやっていることが少しもわかっていません。私たち他の世界に住む者はまったく理解に苦しみます。地球の人々はどうして見抜けないのでしょうか?お互いに殺し合っても何の問題の解決にもなりません。そればかりか、さらに地球に苦しみをふやすだけです。こんなことがずっと続いてきました。きっとこれからも永久に続くでしょう。地球人の科学的知識は、地球人の社会的、道義的進歩をはるかに追い越しています。このミゾをなんとか早く埋めなねばなりません。地球人はお互いに向けて蓄えてある爆弾の中に恐ろしい力が潜んでいるのを知っているはずです。
私たちはあなた方とは別の世界に住んでいますが、兄弟として地球の分裂した各集団を公平に眺めています。私たちは“宇宙”を通して働いている“父”の法則をよく知っていますから、差別することはできないのです。この差別感こそ、あなた方をいつも混乱に陥れているのです。地球のありさまを見ると、私たちも悲しくなります。私たちは全人類の兄弟として、手の届くかぎり、また私たちの手助けを望む人々がいる限り、誰でも援助しようと思います。しかし私たちの生き方を地球の人々に強制しようとはけっして思っておりません。実際には、地球には、いや、“宇宙”のどこであろうと、生まれつきの悪人はひとりもいないのです。多くの地球人が口にしていますが、あなた方の生活が“この世の地獄”にみえるなら、その原因はあなた方自身にあります。地球もあらゆる星と同じように、“唯一の聖なる創造主”の手によってつくられたものですから、それ自体は聖地なのです。それは、“創造主”の創造物すべてについてもいえます。もし全人類が突然、地球の表面から一掃され、ともに生きるすべを学ばなかったために人々がもたらした争いや苦しみや悲しみが一緒に消えてなくなったとすれば、地球はきっと美しくなるでしょう。しかし人間が“宇宙”のあらゆるものと兄弟として生きる世界ほど美しいものはないのです。ある者が他の者を知らないからといって、それが同朋を無視したり、傷つけたり、殺したりする権利を有することにはなりません。
人間はどこに生まれようと、どこに生きることを選ぼうと、私たちはみな兄弟であり姉妹なのです。このことは地球の人類に繰り返し教えていかねばなりません。国籍や皮膚の色などはどうでもよいことなのです。肉体というものはほんの仮の宿でにすぎないからです。こうしたものは永遠という時の流れによって変わってゆくものです。あらゆる生命の無限の進歩を通じて、各自はいずれあらゆる状態をしることになるのです。“無限なる者”の果てしなき広域には、いろいろな形をしたものがあります。人間の目には見えない極小の微粒子から無数の巨大な惑星や太陽に至るまで、大きさはさまざまに異なっています。しかし、すべてが“一つの生命”に支えられているのです。地球上では、人間、動物、植物など、目にはいるあらゆるものに人々は名称を用いてきました。しかし名称とは人間の捉え方にすぎず、無限なる海の中ではあなた方の用いているような名称は無意味で、“無限なる英知”は自らを名づけることなどはできません。それは完全無欠であるからです。そして万物はこの“完全者”の中に生きてきましたし、これからも永遠に生き続けるでしょう。多くの形あるものの中には「人間」と呼ぶものもあり、地球では唯一の本物の英知を持った存在だと称していますが、実はそうではありません。地球をはじめとして、この無限なる“宇宙”のどこでも、程度の差こそあれ、英知を現していないものは存在しないのです。万物の“神なる創造主”は“創造物”に現れるからです。
創造物は主の現れであり、主の英知ある想念の現れなのです。人間として、あなたはそれ以上でもそれ以下でもありません。万物をも支えている生命そのものであるからです。そして万物を通じて自らを表す英知こそが“神”を現すのです。地球人の大多数はこのことを知りません。そして自分の個人的自我の外にある多くのものをひどく非難しています。万物は“唯一の至高者”に奉仕するものでしかないからです。知られるべきものをことごとく知っている人はだれもいません。万物の真相はだれにもわからないからです。それは“全知の神”しか知りません。けれども、あらゆるものは喜んで奉仕することによって、自分たちの英知の源泉について、しだいに理解するようになります。この英知とは自分たちを存在させているのと同じ生命力です。このことを完全に理解すれば、万物のあらゆる現象は広大な庭園に咲く美しい花のように見えてくるでしょう。そこでは色とりどりの花が咲き乱れながら、しかも全体としては調和を保っているのです。どの花も他の花の表現を通じて自分を知ります。低い花は高い花を見上げ、高い花は低い花を見渡しています。さまざまな色彩は全体にとって一つの喜びです。その成長過程はそれぞれの花の関心をひき、それが完全な成長への欲望をかきたてます。花の中に眠っている美しさは、一日かかるにせよ一世紀かかるにせよ現れてきます。その花の中に描かれているものは、しだいに色彩や芳香に現れ、他のすべての花に向けられます。それぞれの花は、他の花のために奉仕することに自らの栄光を感じ、かわりに他のすべての花から恩恵を受けます。この美しい大庭園では、すべてのものが与えられるものであると同時に受けるものであり、“最高者”はメロディーを奏でる楽器なのです。こうして王座の足もとで仕えるものであれば、王座の上や、そのまわりに仕えるものもあります。それぞれが他のすべてのものと混ざり合って、ひたすら喜びを表しています。奉仕するということは特権なのです。
地球の人間が理解しなければならない事実の一つとして、“宇宙”は物質界をその中に含むものであり、その外にあるのではないということです。“宇宙”の中で起こることはすべて“神”すなわち“至高なる英知”の中で起こることであり、その外ではありません。だからこそ、私たちは自らの世界に寄せている関心と同じだけの関心をあなた方の地球にも寄せているのです。私たちはすべて“至高なる英知”という同じ王国にいるからです。私たちは何百年、何千年となくこの英知を身につけ、かつ生かしています。このことを理解しているため、地球人のように危害を加えようという動機で他人を傷つけることはできなくなっています。すべてのものが同じ家の中にある以上、歪められたものがなんであれ、それとともに生きねばならないことを知っているからです。物質的人間の心がこの程度の理解力にまで達したら、醜いもの、不快なものは見えなくなり、すべてが美しく崇高な聖なるものへと向かっている途中にあることがわかります。地球人がこの法則を理解して生きるようになれば、万物がいかにして低いものから高いものへと活動していくかを見ることになり、それを理解するでしょう。その活動は宇宙のために遂行されているのです。高いものから低いものへ向かうのではありません。ところが力は高いところから低いところへも流れてきます。それは低いものに高みに飛躍せんとする力を与えるためです。そこには永遠なる交流があります。けっして分け隔てられているものではありません。
私たちの星の住人はこの法則を知り、自己発達のために応用しました。それによって永遠の生命と、そのなかにおける万物の役割とを認識できるほどに成長したのです。地球と同じように他の星でも死は起こります。しかし私たちはそれを死とは呼びません。また地球人のように去り逝く人を悼みはしません。この別離は一つの状況や場所の変化にすぎないことを知っているからです。ある家から他の家へ引っ越す以上のものではないと理解しているのです。ある場所から他の場所へと行くのに家をかついで行くことはできません。死によって一つの世界から他の世界へ移るとき、私たちは家である肉体を持って行くわけにはいかないのです。地球人の肉体を構成している材料は地球のものであり、地球を維持するために、そこに残しておかねばなりません。しかし地球から他の星へ移るとき、その世界はそこに存在する必要と条件に応じて、肉体という家を建てるだけの材料を貸してくれるでしょう。地球人が考えている“宇宙”は実に狭いものです。“宇宙”を無限なものと考えることができないのです。なのに永遠という言葉を使っています。永遠とは、地球人の定義によれば、始まりも終わりもないことです。とすれば、“宇宙”はどれだけ広いのでしょうか。永遠と同じぐらい広いのです。したがって人間はかりそめの姿でなく、永遠の現れなのです。私たちはこの真理を体得しているため、永遠の現在に生きています。真理とは常に現在であるからです。
金星の私たちは地球人と同じだけ着飾っています。いろいろなことを同じ仕草でします。姿や形もたいしてかわりはないし、衣服もほとんど同じです。ただ私たちは、自分とは何かということを理解している点では、大きく異なっているのです。生命とは禅包容的であり、私たちは生命そのものだということを学んでいるので、何かを傷つければ自分自身が傷つきうることを知っています。それに生命とは、永遠に命あるためには、何より最初の状態を保っていなければなりません。言い替えれば、常に新しくなければならないのです。したがって私たちは退屈というものを感じたことがありません。一瞬一瞬が楽しく過ぎてゆきます。どんな仕事でもやります。いわゆる労働をする必要が起これば、私たちは全身で喜びと愛をもって行います。私たちの星にも、地球とまったく同じように毎日行わなければならない仕事はありますが、だれもが、そしてどんな仕事でも、同じように尊敬されています。それぞれが奉仕しているからです。欠点を非難する人はいません。たとえその仕事が、いわゆる下賤なものであろうとなかろうと、行われる奉仕に変わりはありません。あらゆる奉仕は等しく認められるのです。
私たちが人間の集まりのなかに座れば至福の念を起こすほどに、意識的な知覚力を発達させています。私たちの前に人々が存在することが至福なのです。なぜなら私たちは人々を単に人間とは見ず、人間という形を通じて生きた状態である“神の英知”として見るからです。人間ばかりが、あらゆるものに対しても、私たちはこのような見方をしています。私たちは“神の意識”が最小のものから最大のものまで、ありとあらゆる存在の成長を通して“自ら”を表現していると見ているのです。どんなものも、それを通じ、それを支えている生命がなくてはけっしてそのものになりえない、ということを私たちは知っています。そして、この生命こそ“神の至高なる英知”だと私たちは考えているのです。眠っているときですら、一瞬たりとも、この“神の存在”を感じないことはありません。これこそが人間の真の目的なのです。人間はそのために創造されたのです。他の万物はそれぞれ特殊な分野で全体に奉仕していますが、人間は鉱物その他の元素が“神に英知”の最高形態を表現できるほどにまで進化した姿なのです。私たちはお互いに用心するようなことはなく、他人のものを欲しがることもしません。私たちの星にあるものは万人が平等に分かち合っているからです。